2024年に買い集めた本がまだまだあるので読んでいこうと思う。
錆びる心(桐野夏生)
桐野夏生さんの短編集。個別には当たり外れがありつつもやはり世界を作る上手さがあり暇つぶし的に読むのには適していた。ヌルッと始まってサラッと終わる、無理なく自然体で世界を切り取る作風が作中の一癖二癖を上手く浮かび上がらせていた。月下の楽園は世界観が特に良かった。物語としての気持ちよさではネオンが良かった。
誰が書いたか分からないが(文芸評論家とある)、巻末の解説は実に的を得て書かれておりこれも思わぬ楽しみとなった。その代わりにここに書く内容と重複しそうで役目を奪われたような気分でもある。しかし、自分の感想はそれはそれということで一言ずつでも残しておこうと思う。
「虫卵の配列」:舞台作家に惚れた女がその恋愛模様を語るのだが実態は異なるものだった。意外性はあった。タイトルと最後の展開との関連があればもっと良かったように思う。
「羊歯の庭」:羊歯の絵を描く男と壺作りをする女がなんやかんや。女性から見た世界だなという感じ。桐野夏生さんらしい世界が詰まっているように思う。
「ジェイソン」:酒癖の悪い男が妻に家出され、自らの過去を旧友に聞いて回る。ジェイソンというあだ名の元となった失態をあろうことか妻に対して行ってしまっていたというオチ。この作品に限らないのだがどうも恋愛に絡むと男に語らせすぎる癖を感じる。
「月下の楽園」:荒廃した庭園を愛する男がある婦人が住む豪邸の離れを借りる。その母屋には実に男好みの庭園があり、男は夜な夜なその庭へ忍び込んだ。全体を通してさっぱりとして寂しく、冬を感じる作品だった。登場人物それぞれの変人具合がなんとも自然で臨場感がある。終わり方も気持ちよい。
「ネオン」:設立間もない暴力団の組長とその暴力団のところへ入りたがる男の話。この短編集の中では一番気に入った。映画に影響されてヤクザになりたいという島尻の掴み所のなさが上手く働いている。結局島尻の逃げた理由も分からず仕舞いだが、そのナチュラルな世界の切り取りっぷりが気持ちいい。
「錆びる心」:不倫がばれて家庭での立場を制約された絹子は10年目にして家を逃げ出した。住み込みの家政婦として働くこととなった家には胃がんの末期患者と知的障害のあるお手伝いさんがいた。自分の死を知的障害のあるミドリに植え付けようとする靖夫は絹子の目指すものが自らと同じであると示す。なかなか勝手な女の話だった。しかしこれを美化もせず、かといって反省を持たせるでも無く醜いまま描いている点が桐野さんらしい。
彩香ちゃんは弘子先輩に恋してる 全3巻(Sal Jiang)
SALという短編集とともにAmazonにオススメされた漫画。
あらすじ。彩香は職場の上司弘子に恋心を抱くが生粋のレズビアンである弘子の反応は良くないものだった。彩香は構わず猛アピールを続け本心を伝えるが改めてその思いは拒否されることになる。その背景には弘子の過去の出来事があった。
ギャグテイストを多く交えながら展開される話だがその内容は注意深く清潔で令和的価値観に基づいており、今からすればやや古い(2010年頃まで?)価値観も丁寧に対比されていた。
同性愛作品・百合作品と言えば丁度15年前頃までは女性同士の恋愛であること自体を葛藤として描くか、あるいはある種の特殊世界として当たり前のように描くものが多かったが最近は結婚や出産等の問題は残しつつもそれ自体の異常性を描くものは少なくなってきた。この作品では昨今の許容度の高い環境を描きつつも過去の「当たり前」から変化し損ねた弘子が以前からの立場を守っているという設定が上手かった。まとまりが良すぎて教科書的とも言いたくなるが、新しい時代の黄金パターンとしてごく自然に受け入れられる楽しい話だった。
柔らかな頬(桐野夏生)
直木賞受賞作品ということで読んでみた。
不倫相手との逢瀬のために訪れた別荘地でカスミの長女、有香は失踪してしまう。有香を諦めきれないカスミは手がかりをもとめ捜索を続ける。カスミの故郷であり事件の現地である北海道に住む元刑事の内海はこの事件に興味を持ち、協力を申し出た。スキルス癌により余命幾ばくとない内海は残った人生をかけてこの事件を捜査すると決めたが、捜査の進捗は思わしくないまま体調は悪化の一途を辿った。
この作品は推理小説ではない。どこまでも読者の欲を満たさない精進料理のような純文学だった。強いて言えばこの作品は全体を通して石山という不倫相手を美しく描写していたのかもしれないが生憎男には興味がないのでこれも私の欲を満たす物ではなかった。
読者の欲は満たさない一方、登場人物たちの欲は詳細に描かれる。読者としてもその欲に相乗りする形で何かを得ようとするのだが成就したのはカスミと石山の性欲くらいのもので、それは小さなカタルシスを得た代わりにカスミは娘の失踪という大きな代償を引き受けることにも繋がった。事件の真相については読者はもちろん作中人物までが妄想を繰り広げるほどの欲を受ける存在であったが、これは実に最後のページまで引き延ばされたあげく満たされない結末となった。
そんな本を読んで面白かったのかと言えば、やや面白くなかった寄りのやもやとした感覚である。面白くない本だと思って読んでいたのかと言えばそれも異なる。予定を立てずにふらりと旅に出たような心細さの裏側にどこか自由の爽快感があり、遠くへ向かう電車に乗ってこのまま降りずに乗り続けたいと思ってしまうような不思議な心地よさがあった。ただ、乗っていれば終点に着くものだと思っていた私の見積もりは甘く、どことも分からない場所で降ろされてしまった。もう少し乗っていたかったような気もするし、いずれにせよ終点に着かないのであればこれで良かったような気もする。なんともすっきりとしない。
この読後感が何に似ているかと言えば現実に似ているのだ。悩みがあって解決するなり逃げ出してしまうなりしたいと思ってもいずれにも行き着かないまま時間だけが過ぎて、時間の分だけ苦しい。苦しさをダラダラと引きずりながら毎日毎日その日一日を終えて寝る。どうということもなくしんどかった一日が終わった時の感覚とこの本を読み終わった感覚は近い。
人生は死を持って完結するものではあるが、私が小説の読者でいる間はそれを知ることもない。作者の桐野さんだってまだ知らない。生きる限り現実が続くというもどかしさをなぜ創作物を読んで味わわねばならんのだ。と、全く腹が立つような、腹を立てても何ともならないような、これが創作で良かったような悪かったような、読み終わって2重構造の人生を感じるような感覚がこの作品の味ということであろう。
この作品は直木賞受賞作品なので作品について講評がある。せっかくなので読んでみた。「登場人物が持つ心の闇をあぶり出している」「現代人の荒涼とした心象風景」「どうにもならない人間の呻き」「生と死が入りみだれ、作品を重層的にする」などと面白そうに書かれている。なるほど言われてみるとそんな気もする。私の感想に近いのは「どうにもならない人間の呻き」だろうか。だが、私がもし選考委員だったら他の候補作を抑えてこの作品に賞を贈ろうと思うだろうか。正直なところ私だったらもっと分かりやすく面白い作品に流れてしまいそうだ。それだけに、感想という感想を挙げづらくとも読めば味わい深いこの作品に受賞させる直木賞というものは私に新しい出会いをもたらしてくれそうな気がする。直木賞一覧を眺めながら次は「ビタミンF」が気になっている。
鍵のない夢を見る(辻村深月)
直木賞受賞作品ということで買ったのだったと思う。辻村深月さんは名前だけ知っていたが作品は初めて読む。
感想。いずれも犯罪に巻き込まれる女が主人公だが、女たちの生活が生々しく愚かで読み応えがある。人間の嫌な部分を抽出するのが上手い。いずれの話もどこかで味わったようなじんわりとした嫌な気持ちを思い出させるようで脳が気持ちよかった。女はなぜ誰とも付き合わないより悪い男と付き合うことを選ぶのか。アホなのかと何度も考えた。実際アホなのだとも思うが、本書の中ではその意味での女性の本能については当然のものとして透明化されているように感じられた。つまりこれは女目線から女の異常性を描いた作品なのだと思う。
文章は少し俯瞰でものを見せるような部分があり、ほぼ一人称な話であってもその語りから一歩引いて楽しめる。さっぱりとした書かれ方で癖もなくとても読みやすかった。
「仁志野町の泥棒」:ある日ミチルはバスの添乗員となった旧友律子に再会する。律子の母親は窃盗癖があることで有名だった。律子はミチルの家に盗みに入った母のことを詫びる生真面目さを見せる一方で友人と出かけた先の本屋で消しゴムの万引き未遂をし、ミチルは自らそれを咎める立場となった。母親の窃盗をなかったことにする大人たちの薄暗い妥協をミチルもまた自ら経験する。小さな嘘や隠し事が交錯する人間関係の機微が上手く描かれている。自転車に乗りながら叫んだとか、高校生にもなって涙を流したなど、やや大げさに思える部分もあるが子供のキャパシティーとは確かにその程度かもしれない。
「石蕗南地区の放火」:放火をしたのは過去に笙子へ言い寄ってきた男、大林だった。大林がいかに身勝手でしつこくつきまとい笙子を困らせたものかが描かれている。この作品ではリアリティーのある設定として大林をあくまでも付き合い上突き放せない「変わり者」と描写しているが、実際に存在しそうなこのような男は全くきっぱりと縁を切るべきであろう。その判断をせず、それどころか他の似たり寄ったりの男に憧れを持つ笙子のアホさ加減もまたリアルなところである。私は結局のところ放火の動機は謎と読んだが、解説によれば笙子への思いは関係ないそうだ。私もまたアホでのんきなのだろう。本書では一番現実味のある話だったと思う。
「美弥谷団地の逃亡者」:少し不思議な構成でタイトルから考えると状況が推測できるのだが、美衣は交際相手に母親を殺されそのまま共に逃亡の旅にでる。その旅の道中から確保されるまでを描いた話。そんな男と付き合うからそんなことになるのにアホちゃうかという、ついさっきも味わったような感想になった。パンツを穿かせなかったのは良い。
「芹葉大学の夢と殺人」:かつての交際相手は殺人犯として捜索されていた。殺人犯にわざわざ会いに行くダメ女未玖と本書No.1のダメ男雄大の関係性を描いた話。雄大はサッカーの素質があるでもなくサッカー選手を目指し勉強ができるでもなく医学部を目指し、どれもこれも上手く行かないとなると研究室の担当教員を殺害してしまうダメにも程がある男だが、浮世離れなダメ人間設定であるにもかかわらずどこか「いるよなぁ、こういう人」と思わせる描写が見事。どちらかと言えばこの男と付き合う女の方が現実感は薄く、つまり異常性が高く感じられた。雄大を死刑にすべく身を投げるというのも合理性がいまいち感じられず愚かさに溢れていてむず痒い結末だった。女に正義があるかのような視点ながら女も大概おかしいという本書のテーマのようなものが分かってきた。
「君本家の誘拐」:頼りない夫を捕まえて妊娠出産の末愚痴を言うお決まりの愚か女の話であるが、それはさておき本作品は叙述トリックのような構成が面白かった。勘違いが発覚してさてめでたしかと思えば、さらに大事な子供を犠牲にしてまで自分の面子を保とうとする薄汚さは案外思いつかないような設定かもしれない。
数学する身体(森田真生)
自分の好みに合う文学賞を探している途中、小林秀雄賞というのを知ったのでその受賞作品の中から選んでみた一冊。ただ、本のタイトルはどこかで聞いたことがあったような気もする。
感想としては一言、分かりにくい。終章に至るまで、全体を俯瞰する文章がないように感じられる。まずこの文章は作者の主張が存在するタイプのものではなく、作者自身が「数学とは何なのか」「数学者とは何なのか」「数学をするとはどういうことか」という疑問に立ち向かい、数学史上のエピソードを挙げながらその謎を探求するスタイルのものである。著者にとっては一歩ずつ進捗のある旅だったのであろうが、特段数学に興味の無い読者としてはついて行くのもおぼつかず引きずられながら後塵にまみれるのがやっとだった。
本書では特に岡潔とアランチューリングの思想について深く取り上げながら「旅」をしているが、著者自身の思想との対比がないためかどのエピソードも事実としての意味を越えてこない。この本の読み方としては間違っているのかもしれないが、私はせっかくなら著者の意見や考えをより多く摂取したかった。
結局本書がどんな内容だったのか、あまりに分からなかったので「はじめに」と終章だけはもう一度読んだ。分かるのは身体を使った具体的世界の行為からその意味を抽象化した数学が作られたが、現在に至っても数学は数学する者という具体的存在と対になって存在し続けているということだろうか。
数学はあまりにも縁がないので料理に置き換えて考えてみる。料理はまさに人間が生命を維持するための営みの一部として生まれ、知識や技術は高度化しながら必ずしも生命維持という具体性を持たない学問として捉えることができるまでに至っている。まさに数式で数学を進めるがごとく、レシピによって料理を具体化”せずに”評価することも現代では可能であろうと思う。それでは人類が滅亡し、食材たる生命も地上から消え、石に掘られたレシピだけが生き残ったとして料理はなおその意義を果たすかと言えばNoと言えるのでは無いかと思う。きっと化学実験と料理との違いはそこに区別されなくなるだろう。では生物は再び世に満ちあふれているとして、塩と砂糖を1:1で混ぜてみる。これは料理だろうか。その行為は料理のように見えるかもしれないが料理ではない。その混ぜたものを人間が食べたりはしないからだ。あくまでも人間の欲望を満たすところに料理の存在意義がある。
数学もそうなのだろう。ある整数と整数の和が何なのか、そんなことを無限に調べても数学とは言えない。誰も楽しくないからだ。記号化された世界の仮定まみれの話でさえも「それがどんなものなのか」という人間の知的欲求をもって初めてその行為が「数学する」ものになり、議論の方も「数学」となるのだろう。人間がいなくても「数」は存在する。だが、「数学」は人間の営みから離れることのできないものなのだ。と、おそらくそんなことが書いてあった気がする。小林秀雄賞はイマイチか?
檻(北方謙三)
きっかけはYouTubeの「有隣堂しか知らない世界」に北方謙三さんが出演された回でMCのブッコローが本書を面白かったと評したところから。その時点では北方謙三さんと言えばそんな名前を確かによく見聞きするような気がする程度でどんな人かも知らなかった。YouTube動画を拝見するに北方謙三さんは今も手書きで原稿を書かれている作家さんらしい。昔の人なら珍しくもないのかもしれないが、とにかくそれが強く頭にのこり、ほとんど書き直しができない中でどんな作品が書かれるのかが気になった。
本書「檻」は1983年に発行されたもので私が今まで小説作品で出会って来なかった時代のものである。古い時代の作品と対峙するときはいつもどこか身構えてしまう。スマホが存在しないとかそんな話では無く地の文に存在する常識や考え方の古さがどうにも滲む場合があるのだ。だが本書についてはその心配は杞憂に終わった。この話は昔でも良いし今でも良い。多くは語らない主人公だが懸命に己を全うする姿は近頃出会わない清々しさがあった。巻末の解説にも書かれている通りなのだが、とにかくこの作品の主人公滝野は主体的に行動を起こす。事件に巻き込まれてやむを得ずその場その場をしのぐわけではないのだ。
この作品を読む前に裏表紙の紹介文を読んだのだが「北方ハードボイルドの最高傑作!」とあった。ハードボイルド小説というのはどういうものか知らない。調べてみると簡潔な文体で表され、人物が冷酷・強靱であることを特徴とするらしい。実際に読んでみるとハードボイルドのなんたるかはすぐに感覚として吸収されていった。
この作品では人物に湧き上がる衝動を感情で解釈しないのだ。読者に向かって説明されないだけでなく、登場人物自身が生な衝動をやたらこねくり回して考えることなく、勢いそのまま行動に移すのだ。これが大変心地よい。殴りたいから殴る。女が抱きたければ抱く、捨てたければ捨てる。元より複雑な心理背景や他者との情緒的交流などないのだから描かない。ただ行動だけがそこにあり、行動によって全てが伝わる。滝野がなぜ高安の仕事に一枚噛もうとしたのか、なぜ暁美を気に入り連れ回すのか、なぜ大和田を殺すのか、そんなことはさっぱり分からない。書かれていただろうか。気付かなかった。ただ、それを知らなくても成立する劇であることは間違いない。最近は女性作家ばかりを贔屓していたこともあり、この爽涼感はとても新鮮なものだった。
当初気にしていた「手書きで書かれた小説とはどんなものだろう」という点については全く研究できなかった。内容がひたすら面白かったのだ。最後の十数ページなど読むのが止められずにずいぶん夜更かしをしてまで読み切ってしまった。
タイトルの「檻」はなるほどこの内容に相応しいものだった。
落語と私(桂米朝)
私の一時期の落語ブームの中で買った一冊。既に読んだような気もするのだが改めて読んでみた。
今回私の読んだ者は文庫版のものだが、前書きによればこの原稿は昭和50年(西暦1975年)に中学生や高校生向きに書かれたものであるらしい。確かに前書きも「はじめに」も本文もですます調で丁寧な語り口で小学校の教科書を思わせるような親切さを感じるものだった。
まず「はじめに」、これがもう大変な名文と感じる。ここへ全文引用してどうだ素晴らしいだろうと言ってしまいたいほどに。いやそれでは伝わらないかもしれない。というのも、おそらくは私が米朝さんの落語を聞き慣れて文章が読み聞かせのように音で入ってくるのが一つ私を感動させた要因であるからだ。この本の文章はどこを取っても単に物事をですます調で書いたというのではなく、実際にその語りが著者本人の口から出るものと相違ないと思わせる自然さで書かれている。「はじめに」にから最後の方を少し引用すると、
>この本には少しもウソや誇張は書いていないつもりです。みなさんに落語というものをわかっていただきたくて一生懸命に書きました。
>別にかた苦しいことを書いているわけではありませんので、どうぞ気楽によんでやってください。
と、ごくやさしい口語で、奢ることも威張ることもなく落語というものにひたすら熱心である真面目な様子がうかがえる。この本の魅力の第一はその文章が「記述」ではなく「語り」になっている点にあろうと思う。
本の構成としては序盤は素人が落語と聞いて思い浮かべる疑問をいくつか並べ、それに回答していく形で進み、後半では落語史を米朝さん自身の記憶から、また文献も挙げながら語るものになっている。決して体系的とか網羅的ではない説明の連続だが、タイトルにもある通り本書は米朝さんにとっての「落語と私」であり、私こと米朝さんが自身の頭の中に仕舞っている知識を次々と語っているところにも人間らしい魅力がある。
せっかくなので「落語とは何か」を少しまとめようと思う。落語とは物語であり落とし話である。つまりそんな出来事があったかのように散々語っておきながら最後には「という冗談です」とサゲて終わる。ここが例えば怪談であれば「本当にあった話なのですが」と始まり、冗談だとも言わないために人を怖がらせることができる。あるいは紙芝居では作り話であることは語り手聞き手ともに了解の上で最初から最後まで語り切る。
枕で語り手、例えば米朝さんなら米朝さん自身が己の体験などを語って現実世界から客を引き連れていつの間にかウソの世界に没入させる。一度ウソへ没入させたなら今度は語り手は透明化され、ナレーションがあるとしても無人格のナレーターとしてウソの世界に集中させる。そして散々まことしやかにウソ話をじっくりじっくり聞かせた上で最後のサゲを持ってきて観客の目を覚ます。その時には確かに語り手が人格を取り戻し観客に礼を言う。
落語は現実とウソとのサンドイッチであるところが特徴であり魅力なのだ。私は短いながら「マクラ」と呼ばれる冒頭の話がこの味を影から支えている縁の下の力持ちではないかと思う。マクラで余りに荒唐無稽な話をすると後ろに控えるウソの世界がぼやけてしまうし、逆にマクラ抜きで現実世界の人格としての語り手を見せつけなければウソの世界で話しているのが噺家その人であるように思われてくる。マクラにおいては世間話として広く受け入れられるものを出して、本人の人格も真面目で控えめに見える方が後が面白い。
本書では米朝さんのごく真面目な部分が全く露わになっており、言わば私が今後落語を聞くための長い長いマクラになったと思っている。これだけ真面目で誠実で熱意を持って落語というものを愛し、社会風俗の歴史の知識を持った人が一体どんな話をしてくれるのだろうと期待すればするほど、米朝さんのウソは面白く輝くのだ。してやられたり!
生皮 あるセクシャルハラスメントの光景(井上荒野)
桐野夏生さんの名前が帯にあったので買ったのだったと思う。
内容はその名の通りあるセクハラ事件を複数の視座から描いた作品。
小説としてはリアリティーのある物語で女性の視点のみならず男性の視点や感じ方・考え方などを対等に描いていたように思う。SNSに集まる意見も確かによく見かけるような、また見かけそうなものだった。この小説がよく書かれているだけにそうなるのであろうが、作中での意見にならび私としても何を被害者ぶっているのかというのが事件への感想であり、客観的ではあるが何を伝えたいのか分からないというのが作品への感想となった。
作中の小荒間洋子の言葉を借りれば彼女は生皮を剥がされたのであり小説の執筆を通して自分の生皮を剥ぐのとは全く違うものだと言う。そうなのだ。作品の締めくくりも結局は愛する夫とはセックスできて幸せですというようなものだ。結局のところ、自分の性欲が思うように満たされれば幸せであり、不満があればセクハラであるというのだ。まったく同じことをされても、相手によって、また同じ相手でも関係性によってセクハラか否かを主観的に決めるのだ。
セクハラか否かにはどうしても客観性がない。客観性がないから「同情」が必要になる。セクハラ関連の告発というものは早い話が同情集めであり、同情によって加害者に罰を与えようという私刑的な思想なのだ。被害者がいかな傷を負ったとて客観性のない被害に暴力を動かすことにはどうにも賛同しがたい。それはセクハラ加害者もまた人間であるという前提に基づく。
一方で、大勢の同情で暴力が動くような野性的な世界を考えるのであれば女性はあまりにも男性へ無警戒で生きていると感じざるを得ない。生皮という題名が私に与えた第一印象は生皮一枚の下に性欲が蠢く男性のイメージだった。容姿や性格や資産などのつまらない生皮を一つ剥がせばそのすぐ下には性欲があり、性欲の塊をもって個人を区別することはできない。そんな生皮一枚の僅かな差がセクハラと愛を区別するのだそうだ。
私に言わせれば全てのセックスはレイプであり、合法的なレイプというものを定義しようとする女性たちこそ性欲の運用が恣意的に過ぎる。「知らない相手から包丁で刺されたら嫌だが彼氏なら毎晩でも大歓迎だ」と言うものはいないだろう。憎むなら全てのペニスを憎め、と思わずにいられない。
聖なるズー(濱野ちひろ)
先に書くがとても面白い本だった。今年読む本の中で5本の指には間違いなく入ってくるだろう。読み終わった今も生憎徹夜明けの頭だが内容を反芻しては味わっている。
この本はYouTubeの「有隣堂しか知らない世界」で開高健ノンフィクション賞作品の一つとして紹介されており、動物性愛者というものが面白そうで購入を決めた。
「私には愛が分からない。」と第一文。私にも分からないものであったので頭からぐっと話に引き込まれた。本書は著者の大学院での動物性愛者の研究および論文発表と平行して執筆された。動物性愛に興味を持ったのは指導教官からの言葉がきっかけであったそうだが、人間と動物とのセックスという奇妙な世界にのめり込んだその背景には性暴力を受けた著者の過去がある。愛とセックスとは一体何であるのか、どのような関係のものであるのかという疑問がその先の物語を進める原動力となる。
著者はドイツを中心に動物性愛者と接触を図り、インタビューを進めるのだが一時生活さえ共にしながらのその取材は相当に日常に迫ったものであるらしい。取材対象者の会話とその内容には研究取材でありながら親しみが感じられるものが多かった。セクシャルなテーマを話して貰うのだからそのような関係は前提として当たり前なのかもしれないが、この取材を成功させるだけの真摯な姿勢を持ち続けることは並大抵ではないのだろうと思う。それぞれのインタビューは各人の率直な意見を拾いあげているが、それらは主張というよりも当たり前の生活を観察した記録に近く感じられ、またインタビュアーとインタビュイーという関係を越えた友情が確かに垣間見えた。動物性愛者に限らず、性生活とは隠しさえしなければ誰もが何かしらの形で持つものであり、当たり前の日常なのだ。
親しみと生々しさのあるインタビューが並ぶ一方で、著者の見解はどの部分においても論理的であった。論文の作成が念頭にあるおかげか道中の文章はいずれも明瞭に意味を持っており、読み進めるだけで頭が整理されていくような気持ちの良い読書を体験できる。
本書を読み終えて、「動物性愛者」というこの言葉を改めて冷静に捉えてみると「動物を性的に愛する特殊な人間」という解釈をするのは二の次であるべきでないかと感じられる。すなわち「動物を性的に愛する動物」という動物界においてごく当たり前の存在こそ動物性愛者と呼ばれるべきなのではなかろうか。私も人間を性的に愛する人間であるが、何も愛する対象を人間に限ると宣言したことはない。本書では第五章でクルトが示してくれるように人間以外の動物を愛したことはないがズーであるという「選択」もこの定義からすると自然なものと思われる。特殊と言うならばむしろ犬や猫ばかりをペットとして「飼う」行動の方なのかもしれない。ある日ペットショップから連れてこられて「おまえは今日から家族だ」というのは私も昔から人間都合の暴力的な営為であると同時にそこに「(家族)愛」を生じさせる歪さを感じていた。
先日のセクハラの話でも考えたことだが、暴力的となり得る行為にどのような言い訳を立てればそれが正当化されるのかという問題は相変わらず難しい。私としては自己都合にすぎない干渉行為はどれも客観的に暴力的なものだろうと考える。ズーも暴力的だが人間対象の性愛だってどれも暴力的だ。人は日常的に自らに降り注ぐ暴力を赦しながら生きている。他者から向けられる性愛が暴力でなくなる日は来ないのだ。ただ、暴力さえも愛する関係が存在しうるということがことを複雑にさせるのだ。ズーも、性暴力も、どのような建て付けでいかに他者を介入させるか、公共の巨大暴力をどう動かすのかという点でのみ「問題化」されるべきであろうと思う。
さて、興味深いのは著者が本書のタイトルに「聖なるズー」という言葉を使ったところだ。このワードは文庫版においては114ページにて取材対象者の一人、エドガーが動物性愛擁護団体であるゼータを揶揄する言葉として登場する。会員のほとんどがパッシブ・ズーであるゼータの行儀の良さを皮肉ったものだ。どうにも不可解なのだ。
「セックスを語る自由」を求めているのだと著者は言う。そしてそれは誰にでもあるべきものだと言うかのような正義感としても見受けられた。しかしこうしてセックスを自由に語れるのは皮肉にも性暴力の被害者であるが故という側面があるのではなかろうか。加害者が加害性をセクシャリティーとして語れる日は来るのだろうか。私にとって心残りなのは本書「聖なるズー」がその名の表すがごとく、未だ聖域にとどまるように思われるところだ。
ミーツ・ザ・ワールド(金原ひとみ)
金原ひとみさんの作品は「蛇にピアス」に次いで2作品目となる。「蛇にピアス」はどうにも私の感性に響かないものであったため、その人と知らずに本書を買った後には正直「しまった」と思っていた。私がなぜ本書をうっかり手に取ったのかと言えば本書が柴田錬三郎賞受賞作品であったからだ。柴田錬三郎賞と言えば私の気に入っている桐野夏生さんの「残虐記」や夢枕獏さんの「神々の山嶺」などが受賞作にあり、今のところ私の中で受賞作への期待値が高い賞なのだ。
果たして今回の「ミーツ・ザ・ワールド」はと言えば、見事柴田錬三郎賞の株を上げてくれた。「蛇にピアス」と同じ作家さんだとはちょっと思えないほど印象の異なるものだった。
本作は前編を通して「私」ことミツ橋由嘉里というオタク女の一人称で語りが進む。酔い潰れて道にへたばっていた由嘉里に手を差し伸べたライ、そしていずれもライの知り合いであるホストの男アサヒ、謎の小説家ユキ、オカマのオシンを中心に由嘉里の知らなかった世界が次々に繰り広げられる。由嘉里はしがない銀行員であり、焼肉アニメのオタクであり、恋愛経験のない処女だ。この前提から素人として物語を考えてみると由嘉里は恋愛をし、オタク活動を足がかりに陽キャ世界の住人となり、なんやかんやで銀行員すらやめて新しい自分に生まれ変わる話が思いつく。しかし、そうではなかった。知らない女に拾われてその家に居候しながらも銀行員は続けるし、焼肉オタクはより熟成され、結局恋愛は気配も見せず処女のまま話が終わった。
では主人公に変化をもたらさない程度の群像劇を味わう作品なのかと言えばそうでもない。由嘉里にとっての生きる哲学はむしろめまぐるしく作中で変化し続けた。死んでいる自分自身を自然と捉えるライとの出会い、そしてまたそんなライの喪失を通して由嘉里は自分自身の「ないもの」に向かい合う能力を得たのだろう。したことのない恋愛、実在しない肉のキャラクター、いなくなったライ、いずれも無いと思い込めば無いことにできるはずのものだがもはや由嘉里はそうは考えず、あると思えばあるのだしあると信じるだけで実在を求めない生き方を得たのだ。コギト・エルゴ・スムと言ってしまえば乱暴なのかもしれないが、小説の読者が小説のキャラクターを「存在させる」ように、自分という視点が他者を確立させうるという考え方を手に入れて何者でも無い自分自身であっても自分の信じるものを信じる主体として重要な存在なのだと考えを新たにしたように見えた。
屁理屈屋の一人称があれやこれやと理屈をこね回す物語は好きなのだが、あまりオタクオタクしたオタクがこれをしているものには出会って来なかったので今回は新鮮な気持ちで物語が楽しめた。いや、小説としては新鮮だっただけで、オタク語りはアニメなどで散々触れてきたものだからむしろ親しみがあったのかもしれない。もしこの作品が二次利用されて別媒体へ移るならぜひアニメで味わいたいと感じた。ところで、先日読んだ生皮ではSNSとして「Twitter」が登場していたのだが、本作品では「X」になっていた。やってくれたなイーロンマスク。許さない。
吾輩は猫である(夏目漱石)
言わずと知れた有名作品である。やっと読み終わった。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生まれたかとんと検討がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャーと泣いていたことだけは記憶している。
と、始まる。この部分は何度も読んだから覚えている。そう、私は「吾輩は猫である」を何度か読みかけている。そして何度も脱落している。確か実家に本があった。それを読みかけたことも覚えているし、青空文庫にアップロードされているものを読みかけたことも2度3度ではない。
有名作品に触れておこうという一種の見栄のようなもので手に取っていたのにも違いないが私がどうしても「吾輩は猫である」を読みたかったのは若い頃に読んだ「坊ちゃん」の読書体験が忘れられないからに他ならない。皮肉的でリズムが良く新鮮な語彙に溢れた作風がとても気に入っていた。本作品は夏目漱石の処女作であるが当然のごとく漱石節全開であり私は読書に挑戦するごと、面白い文章だと思いながら読んでいた。面白い文章による面白い本でありながらなぜ今まで幾度も読み切ることがなかったのかと言えばこの作品が純文学の極致でありエピソードとして最後まで読む動機が薄かったことと、1ページごとでさえ読み応えを感じる濃密な文章の連続で読書体力をゴリゴリ削ってくる内容の濃さがゆえだ。
今回私は集英社文庫版の上下巻を買って読んだ。青空文庫で読めることは先刻書いた通り分かっているのだが、青空文庫では注釈がないため知らない単語や言い回しの多い本作品に向き合うには出版書籍に付属する注釈の助けが欲しかった。
読み終わった直後である今、私は大きな山にようやく登り切ったような達成感に浸っている。純文学作品ゆえに大きな流れとしてのストーリーへの感想などはなく、ただただ高密度な良文と対峙したことでの心地よい疲れが残っている。この作品を純文学だとカテゴライズして読み始めた以上、どんなに唐突に話が終わろうとも気にしないつもりだったが、まさか猫が死ぬとはやや不意打ちのさみしさが残る。
物言わぬ、また身体的にも影響力の小さい猫を語り手としておよそ全編にわたって猫目線の一人称で進む世界がこれほど濃密であり続けたことは大変な驚きであり、またそんな芸当が可能なものであるという点で小説執筆への勇気をもらったような心地がする。
次の夏目漱石は「それから」が本棚でスタンバイしている。これもまたしばらくは読まないのだろうなあ。
ファラオの密室(白川尚史)
有隣堂しか知らない世界に登場されていた作家さんの作品。詳細はゆうせか本編を見れば分かるのだが、この作家さんは東大工学部卒の弁理士さんで実業家という文学以外で十分成功した人であり、そんなあまり縁がなさそうな人のデビュー作となったミステリーなのだ。私はひねくれ者なので自分自身もそうであるように文学とはほど遠い(と思われる)人の書く作文に興味がある。ゆうせかでの先生の印象も良かったのですぐに本屋で手に取って今日まで大切に仕舞っていた。
さて、読み始める前から帯に多少のネタバレを食らいつつ読み始めると舞台は古代エジプト。アクエンアテンの死後まもなくという歴史上実在する時空だった。エジプトの歴史には詳しくない私でもアクエンアテンとツタンカーメンは知っている。王の支持する神が入れ替わったこともなんとなく思い出していた。そんな時代において上級神官書記であった主人公セティは不慮の事故により下半身を潰され、遺体はミイラとして処理された。さっそく主人公が死んでしまった。というか死んでいた。
そして驚くべきは死者となったセティが真実を司る神であるマアト神による審判において心臓の欠けを理由に判断を保留され、現世へと蘇って自ら欠けた心臓の一部を探す旅に出るというストーリー展開である。この作品はミステリーと聞いていたし作者も作者なのでもう少し科学的でお堅い感じの話と思い込んでいたから驚いた。
ミイラとなったはずの死人が生き返りなどしたらそれだけで大事件のはずだが、本作品世界ではどうも「まあ、そういうこともあるやろ」という広い心の宗教観により他登場人物からも蘇生を疑われてはいない。そんなある種の緩さが古代エジプトの歴史に身構えていた私の緊張を上手くほぐしてくれたように思う。
読み進めると本作品のミステリーたる部分に到達する。密室にあったはずのアクエンアテン王のミイラがいつの間にか別の場所へ移動しているという「謎」である。しかしそんな明確な謎現象が起こりながらも例の「そんなこともあるやろ」の宗教観が今度は逆に謎の解明を遠ざけてしまう。王はメリラアが執り行うはずであった葬送の儀から逃げたのだと。
主人公としては自分の心臓の一部を探すのが目的の旅であるのだが、その謎を解くにはどうしてもメリラアが何をしたかったのかを解き明かさなければならない。ミイラ職人のタレクや石運びの奴隷の少女カリの協力を得て事件は次第に解決へと向かう。
読み終わってみれば随所にちりばめられた伏線は見事に回収され、また王室にて実際に密室に陥った主人公たちが謎解きを経てその密室抜けを再現するなど美しい構成に感動した。宗教的な伝説を空想科学的に取り扱う部分があるので丸きり物理的な理屈ばかりが通るわけではないのだが、その絶妙なバランスと論理的な話の展開が十分な納得を与えてくれた。今まで読んだミステリー作品でその種明かしをもはや忘れてしまったものはいくつもあるが、この作品の展開だけは忘れそうにない。
全体を通して「謎」への伏線が回収されたのは気持ち良いのだが、それ以外の人物の心象等についてはややご都合主義的なものも感じる。タレクはどんな思いでセティをミイラに加工し、その真意について黙っていたのか、メリラアは宗教への志が強いのであろうが殺人を以来するのに躊躇さえもしなかったのかなど気になる点は残った。
また本書の裏のテーマとしては親子の絆と子供の成長があるように思われる。セティは自分の思うままに生きろと(残念ながら死後に)諭され、カリは親を疑いながらもその教えは守り続け主人公たちエジプト人に協力し始めついに親が裏切ったのではないことを知り、トゥトアンクアテンは親の決めた信仰に従った結果災いに見舞われ、そして決別を決意する。このように親子関係は本作品の中で大切にされたテーマの一つであるらしい。ただそれらが私にはいずれもあまりに都合の良い話ばかりであったように感じられる。トゥトアンクアテンについては若さのこともありやや同情するが、あなたがしっかりしていれば主人公さえも死ななかったのかもしれないのだ。惜しい。
とは言えミステリーとしては上出来であったと思うし、妙なところで濃いドラマをするよりは簡潔に人物像を描いてくれたことで読みやすかったとも思う。
この作品は完全に古代エジプトを舞台にしているのでもはや古さを感じることもなく、これから古くなることもないというのが美しい。翻訳されたら海外の人でもきっと楽しめるだろう。私もまた忘れた頃に読み返したい。