2024年序盤は頭の調子が悪くなかなか本が読めていなかったのだが、休職の甲斐あってか後半ではかつて無いペースで小説を読みあさった。
世界はラテン語でできている(ラテン語さん)
Twitterでフォローしている方が出された本なので買ってみた。
ラテン語に関係する雑学がぎっちり詰め込まれた一冊。ややかけ足で濃密度に展開されるラテン語知識は丁度オタク人間の語りを聞くようで微笑ましいような可笑しさがあった。この本を読むときにお酒を飲んでいたからそう思ったのかもしれない。
体系的にラテン語知識が得られるということは全くなく、ひたすらラテン語知識の面白いところだけが並んでおり著者の「楽しませるぞ」という意気込みが感じられる。この本は是非中学生くらいで出会って授業中にこっそり読みたかった。
読み終わって1日、既に忘れてしまった話も多いので何度か読み直したい。カプチーノの由来など、ちょくちょく出番がありそうだ。
かいじゅうの色の島(はっとりみつる) 1巻および2巻
百合漫画らしいので買ってみた。表紙から軽めの漫画かと思っていたら案外しっかりと人物や世界の描かれた作品だった。
絵が良い。控えめな線量で人体もリアルで表情も豊か。町並みもどこかモデルがあるのだろうけど実在感が伝わってくる。言葉はM県のものを意識されているらしいが「なっとしよ」などは私には馴染みがなく京阪系の言葉遣いでも少し異世界を感じて面白い。
肝心のお話の内容は謎がちりばめられてまだまだ序盤という雰囲気。おそらくは全4巻か5巻はあるのではないかと思う。その2巻までを読んだのだが、なんとこの2巻が出るまでに約5年、それも2巻は先日発売されたばかり。ガールズ&パンツァーとどちららが先に完結するだろうか。私は生きているだろうか。早く読みたい。
蛇にピアス(金原ひとみ)
過激な内容を書く女性作家さんの作品、ということで買った本だったと思う。長らくブックカバーをかけたまま読めていなかったのだが読み始めたら案外すぐに読めてしまった。
女が男とセックスしながらピアスやスプリットタンや入れ墨を刻んでいく。男が一人死ぬ。要素は過激であるのだが、そのインパクトをストーリーへ繋げるような思想や感情があまり感じられず趣味の合わないAVを見るような感覚がだらだらと続いた。逆に言えばそんな調子でありながら最後まで読ませるだけの文章の良さはあったかもしれない。
性的な描写について言えば事象としてあまりにあっさり描かれるために違和感として引っかかる部分は少なかった。そのあっさり感はピアスを空けたり墨を入れる描写についても同様であり、本作のメインテーマの扱いとしては少し物足りない。
品質が悪いというわけではないけど私には合わなかった。
残虐記(桐野夏生)
積んであった本。かなり昔に買ったのだと思う。裏表紙のあらすじも読まずに中身へ入ったのでどんなものだろうかと思ったのだが良質な純文学だった。
読み始めてすぐに感じたのが文章の読みやすさ。無駄な言葉遊びを使わず、言葉は意味をそこへ並べるための道具でしかないようにシンプルで整理されて過不足無く使われている。少しくらい妙な文体でも読んでいるうちに慣れてはいくものだが、この作品ではそれが最初から実現された。私が自分で小説を書くならこんな文章にしたいと思う、つまり私にとっての理想の文章とも感じられたので相性の良さというものもあったかもしれない。
本作の内容はある少女誘拐監禁事件を描くものだ。ミステリーではないしホラーでもなければポエムを引き延ばしたようなものでもない。私はこれを純文学と一応分類した。せっかくなので何が純文学で何がそれ以外なのかを考える。前にも考えたかもしれないが、構わない。
まず文章以外を作品に含むものは純文学から除く。絵本は純文学には含めない。加えて、読者にとってその前後で変化を伴うものは除く。ノンフィクションなどは事実を知るという変化が伴うから純文学には含めない。人に変化をもたらすのは薬の仕事であって文学の仕事ではないと考える。これで大方純文学らしい範囲に絞り込まれたと思う。そしてここにもう一つ条件を付けたい。作者が読者の鑑賞内容を明確に想定しないものは純文学から除く。この条件で取り除かれるものはポエムだ。
曖昧な表現を並べて読まれ方の幅を持たせるものは言葉の力を借りた、言わば作者と言葉の合作だと考える。言葉は一人でもぶらぶらと生きているが文は人が作るものだ。文学が文による芸術ならば言葉はあくまでも材料に過ぎない。言葉は人に支配されて文たりえる。そして文は作者の思惑のまま並べられ文章となり作品となり、最終的に読者の鑑賞を支配する。作者から読者まで文による道が一通りだけ続き他の干渉は許さない、そんな作品形態こそ「純文学」と呼ばれるにふさわしいのではなかろうか。私はこの作品の鑑賞において自分自身の自由な想像力を発揮することなくおそらくは作者の想定に近い形で鑑賞を行わされた。その体験はすっきりと気持ちよく「純」なものだったと思う。
この読書感想文、内容についてまだほとんど言及していないのだが、特段言及する気にならないからそうしていない。おそらくは作者によって作品への想像を終了させられたためにそのような心境でいるのではないかと思う。
本作の底に流れる哲学のテーマは「想像」だ。それは間違いないだろうと思う。作品内の原稿は夫に、出版社の矢萩に、そして私にそうさせたように文章をもってその状況を想像させた。そして作品自体も同じく、という再帰的構造を取っている。そして夫による語りはまさに私がただ物語を摂取した場合の「想像」、「夜の夢」、そして読書感想文的役割を担っており、それゆえ私が作品内容について何かを論を述べるような余地は奪われたように思われる。作品からさらにもう一段外側、文学の枠で論じたのはそのためだ。
希望の死んだ夜に(天祢涼)
Twitterの知人が読んでいたのに影響されて買った本。買ったことを忘れて積んでいる間にまた気になったのか2冊も買っていた。
内容はミステリー。冬野ネガという少女に同級生殺人の容疑がかかり、刑事である真壁と生活安全課の仲田がバディを組んで捜査を進める。登場人物たちはいずれも特徴が濃く設定されているのだが、それは日本のTVドラマに見られる過剰演技の役者めいた印象であった。本作序盤ではネガが謎めいた少女として描写されるのだが情報を集めるうちに年相応に幼く殺人に関わるような狂気さえ持たないことが明らかにされる。周囲の濃すぎな人物像の対比と見れば確かに主軸となる味わいはあったかと思う。
本作中での課題は一貫して貧困であった。それぞれの形で貧困にとらわれた3つの家庭、そして刑事真壁の過去と現在、風俗嬢、ホームレス、要素としては十分過ぎるほど登場するのだがいずれも離散的に描かれ、また教科書的なケースに終始しており殺人事件の背景としては深みが足りなかったように思う。
真壁が思い浮かべるヒーローとしての警察像、また仲田が大切にする「想像」、これらは面白そうなのだが、面白そうだと思っているうちに話が終わってしまった。TVドラマの第一話として捉えれば第二話以降が気になる「引き」があったとも思う。少し残念。
本作は私が勝手に期待したよりはライトな作品であった。昼間にテレビをつけてこのドラマが流れていたとしたらまあまあ当たりの方かな、という感じだ。この作者の他の作品も本棚に積んであるので次はもう少し気楽な向き合い方で読もうと思う。
大人になることのむずかしさ(河合隼雄)
精神疾患界隈で話題だったか何かで買った本。これも3年ほど寝かせてしまったので購入動機をわすれている。ただ一つ言えるのはこんなに古い本とは知らずに買ったということ。本書はその大半が1984年に書かれたものを載せる形で再編されている。そのことを知らないまま読み進めていたのだが、どうにも議論が古くさい、周回遅れのような話をしていると思い何度も奥付を確認しては2014年初版の記載におかしいと首をかしげていた。
内容はと言えば残念ながら収穫と呼べるような新しい知見が得られるものではなかった。著者の経験や身近な例を挙げながら大人になりゆく子供たちの苦悩やそこにある障害を解説しているのだが、なかなか著者の考察や論と言えるものが出てこない。文章の流れを受けて「だからといって私は――と言いたいのではない」の様な記述は少なくとも2回は出てきたのだが肝心の「――と言いたいのだ」が出てこない。時々断言するような何かが出てきたかと思えば著者の価値観がそうであるという主張に過ぎず、例を持ち出した意味がないような締めになっていたりする。結果的にのらりくらりと結論を遠ざけ、文章を本一冊のボリュームになるまで引き延ばしたような印象だった。
言いたいことを言い終わってしまえば文章はそれで仕舞いになる。さっさと言い終われば楽に思えるがそうはいかない場合もある。例えばこんな自由な読書感想文ではなく商業書籍として販売するものであればある程度要求されるボリュームは先に定まっているだろう。ではもう少し有意義に「引き延ばす」としたら何をどうすれば良いのか。
まず読者との前提の共有。その文章を書く動機と読む動機をすりあわせるための枕話がいるだろう。ここが長くては読者が飽きる。そして最後に全体の要約と総括、それから今後への展望などを書く。これも長いのは格好悪い。従って、中盤において①事例紹介、②問題の抽象化、③問題の原因と機序の解説、④著者の考察と理論の紹介、⑤実際の対処事例や今後への展望、このようなことを繰り返すことになる。新たな理論を紹介した後はその反証となり得るような事象も登場するはずで、また①から同様の内容を書くことができる。
本書については①②⑤ときて、③と単なる感想を混ぜたようなものが入り結論せず、また別の話が始まるので読者としては宙ぶらりんのままリフレッシュされない議論が長々と続いて感じる。また事例にかかわらず著者の価値観を結論としているものが多くあり、その話法が古くさくも感じる。今なら「それってあなたの感想ですよね」と一蹴されてしまうまとめ方だ。著者の価値観を知らしめるならエッセイでよかったものを論文めいて書き並べたのがどっち付かずという曖昧な印象に繋がったのかもしれない。
自分の価値観と物事の定義を区別することは最近になって強く意識されるようになったように思う。個性や多様性が重視されるということは何が独自的であるのかに敏感ということだ。個人の考えが尊重される世界では自分の意見がいかに世に普遍の事実と見えても「普通」と表現することはためらわれる。時代の変化が「話」を古くするという事象に出会えた点では本書が面白い考え事のきっかけとなったことに感謝したい。
グロテスク(桐野夏生)
先日の「残虐記」以来、また桐野夏生さんの作品を何か読みたいと思っていた。自分が読みたい本を見繕うというのは難しい。小説の読書体験はサンプル化されにくく、ゆえに広告や宣伝の幅が限られてくる。購入者としてはやはり気になるのが他の人の感想であり、またそれは読書前に仕入れたくない情報でもある。そして良い本を探しているにも関わらず、絶賛するような感想は商品情報として拙いのだ。もちろん悪いレビューを読んで買いたくなるわけでもない。戒めとして書いておくが、ネット通販のレビューを読むのは時間と精神の無駄だ。あれを読む位なら高々数百円、買ってしまった方がいい。
今回は買いたい本の著者は先に決まっている。それも「この人の書くものならおよそ外れはないだろう」と自ら評価しているので恐れることもない。本屋に行って、棚から作者名を探して、そこに並ぶ数冊から適当なものを選べば良い。本屋というのはありがたいもので小説であればおよそ無制限に立ち読みもできるし本に紙の撚れや折れなどがないかも確認できる。また、ネットでは分かりにくいのがボリューム感だ。350ページとか書かれても小説購入初心者である私にはそのボリュームがピンとこない。今回選んだ「グロテスク」は上下巻合わせて850ページほど。あまり長い話を読み慣れないので本屋で手に取った時には大いに悩んだ。悩んだ結果購入に至ったのは桐野夏生さんへの信頼だ。文庫本としての発行が2006年であるのも良かった。残虐記の2007年に近い。きっと楽しませてくれるだろう。
感想。残虐記もそうであったが、本作品も読後に何か後味というようなものが残る作品ではなかった。読者を驚かせるどんでん返しがあるでもなく、何かもどかしい結末を迎えるでもなく、作者が何らかの主張を向けるでもない。読者としてはひたすら作品世界に浸り、読書体験のその時間を楽しむ、鑑賞型アトラクションのような楽しみ方を求められる作品だった。さて、それではその世界とやらは桐野夏生氏が全く新規に構築した独自世界であるのかと言えば実はそうではなかった。
下巻巻末の解説を読んで知ったのだが本作品にはモデルとなる実在の事件が存在するらしい。「東電OL殺人事件」と呼ばれるその事件は結局私の知識にはないものだったが、事件を知っていたとしても一人称の語りが続く本作品との関わりはあまり感じられなかっただろうと思う。本作品の内容はそれぞれの視点からの景色と主観的な感想が大方を占める。モデルの事件が持つ事実の座標に創作された主観という座標が加わり、それら座標を持つはずの世界は読者の側で想像される。実際の事件を原作とすれば私の想像したものは三次創作のようなものであり、その世界は大変に詳細なものだった。そのことは決して本作が実際の事件を掘り下げたというのではなく、むしろ人の創作力と想像力を介してしまえばかくも豊かにそれらしく世界はねつ造されてしまうという「報道の真実性」に対する反証を与えること意味しているように感じられた。
先に書いたように本作品は全て一人称で書かれており、「わたし」の語りと周辺人物たちの日記等で構成される。そして「わたし」にあってはですます調でその語りが進められる。読み始めた瞬間は作者の正気を疑った。ですます調で50万字(後からそうでない部分もあると分かるのだが)は私だったら挑戦もしない。ですます調では語りの中に事実の描写を入れるのが難しくなる。つまり三人称的な文を多くは混ぜ込めない縛りプレイなのだ。これは単に作者がそういう遊びをしているのではなく、モデルとなる事件がありいくつかの事実が存在することと対比させる目的では無かろうかと思う。この世に事実は存在しても事実を拾い上げるものは人間であり、我々が事実として取り扱うそれは常に主観を持つというアンチテーゼがこのですます調には表れているように感じられる。
ですます調での語りが続く本作品、作者も楽では無かろうが読み手もなかなかリズムを捉えづらいものであった(語り手の拙さが上手く表現されているとも言える)。上巻では実際にその語りを声で聞いているかのような眠気に襲われもした。しかしそこからの中国編(チャンの上申書)および和恵編である。
下巻に入り上巻での静けさと打って変わって強気で堂々として生命力に満ちた語りが始まる。中国編だけで一作品としても良かろうほどの濃密な世界が描かれ「わたし」やユリコのことなど忘れそうになほどだった。また、和恵編の歪んだ世界も妙に落ち着いた外の世界と混じりあってその主観性が気持ちいい。読書中、特に語りが変わるごとに作者、桐野さんのことを思った。例えるなら肉体能力を持て余すトライアスロンの選手を眺めているのに近いかもしれない。メタ的な印象を与える良し悪しはあるかもしれないが私はこの作品に桐野さんの単独作文筋肉ショーと呼びたくなるような圧倒される力強さを常に感じながら読み進めていた。
物語の良さというのは作文能力も当然だが描く世界の「自然さ」が伴わなければ実現しない。桐野さんの場合、汚れの描写が上手い。手刺繍のラルフローレンなどは本当に感動した。和恵の意地汚さと貧しさ、それを引き出す周囲の嫌らしさ、助けを出したミツルの存在の浮き具合、それらがあのアイテム一つで克明に再生される。世界の意味合いを多く受け持つ「描写の焦点」を作り出すのが非常に上手い。言葉をたくさん並べて情報まみれにするのでは無く、高度に圧縮された「描写の焦点」から豊かな風景が再現されるのが面白いのだ。祖父の「キイン」やマルボロ婆さんの存在も並では思いつかない「焦点」ではないかと思う。この作品では売春を取り扱うために性的な情報のまぶしさが作品世界のコントラストを崩壊させそうに思われるが、先に書いたような世界の汚れが多く描かれることで眩しすぎず暗すぎず、有意義に雑多な世界が実に自然で読者としての自分の想像力が強化されたようにさえ感じられた。
また、残虐記とグロテスクを読み、共通して感じた特徴は男性描写のリアルさ。性欲に支配されて動くつまらない虫のような生き物でありながら競争本能のために発達した複雑な思想を無駄に持っている。男性視点から男性の行為を描くとそれは性欲を達成するための行為、あるいは男性個体間の競争でしかないように見えるのだが、それらが女性視点から描かれることによって性欲は当然化され競争は当事者性を持たず、その向こうにある無駄なディティールが面白く浮かび上がる。人間の基礎たる本能に基づいた描写群は意地悪な読者の(つまり私の)鑑賞の中で作品世界のコンクリートとなり確固たる人物像をその上に載せているように感じられた。
男性作家の作品はあえて性欲を隠しているような描写の遠慮が見られてつまらない、女性作家は男性が性欲で動いていることを理解できていなさすぎる、と小説作品の性欲描写については散々文句を付けてきたのだが、残虐記およびグロテスクにおいては満足のゆく描写に出会うことができた。それは作者が男性なのか女性なのかなど気にもさせない能力の持ち主であるとも言える。この出会いはとても嬉しい。また桐野夏生さんの作品は何か読もうと思う。
コンビニ人間(村田沙耶香)
残念ながらつまらなかった。ありきたりな人物設定と意外性のないストーリーと助長な描写で少しずつ期待外れだった。「残念ながら」というのはタイトルに惹かれて購入を決めたからなのだが、コンビニ人間の意味はコンビニエンスストアに勤める人間というそのままであり「コンビニエンス」との意味の重なりを持たせるでもなく、また第二に期待したB級映画的な内容でもなかったことがそのような評価に繋がった。
この作品が主人公としたのはマニュアル化された世界ににしか適性を持たず自分らしさもなく世間に自然と混ざっていくでもない変わり者女であり、また主人公と出会う変わり者その2も自分の考えに固執して世間との乖離を起こしている引きこもりのような男性なのだが、これらはキャラクターとして大変にありふれたもので物語のテーマとなるには意外性がなさ過ぎた。また抽象的な変わり者である他に人格としてのディティールが描かれない点も淡泊であり学芸会の劇かのようなのっぺりとした印象を拭えない。
作品の文章はやや説明的で、せめて書かなければ想像の余地が残って多少良かったのではないかと思う文がいくつか見られた。特にコンビニエンスストアは読者にとっても身近な存在であるため解像感の差が気になってしまう。
描写量と解像感についての考察となるが、言葉とは物事を抽象化して記号化したものであるから並べれば伝わる情報は増える一方で切り口が滑らかで人工的な表現となり皺のない物事が世界に増えてしまう。一方、読者は現実世界という高解像で複雑な世界を既に持っているのだしイメージできる限界もそこにあるのだから解像感を合わせるには現実を引用するのが良い。この作品ではどちらかと言えば何もないところに世界を建てようとしている感がありコンビニと聞いてイメージする雑多な雰囲気から離れてしまったのが残念に思われる。
のっぺりとしてありきたりで現実について批判的なわけでもない、そういう作品にも一定の需要はあるのだろうと思う。私は文字で物語に出会うとどうしても文字という抽象ツールがいかに複雑な世界を想像させるかというところに面白さを求めてしまうので残念ながらこの作品は私向けではなかった。
エミリの小さな包丁(森沢明夫)
角川文庫の本。私は普段書籍の購入時に出版社を意識はしないし読み終わっても気にしないが、角川文庫だけは少し雰囲気を感じることがある。当たり外れが少なく、万人が読みやすい丁寧な作品が多いように思う。
さて、この作品も結果的に私の中の角川文庫らしいという印象になった。作品のテーマは海のグルメであり、不倫をして傷心だという主人公が海沿いの祖父の家に逃げ込んで自然にふれあい、また都会へ帰るという無難で気ままな話である。
主人公の一人称で語られるため物語上の必然とは言えるのだろうが、グルメ作品としての平和的な内容と主人公およびその母親、また都会の友人の軽薄さが当然のごとく混ざり合って描かれている。客観的には自業自得であろうものを可哀想なことのように扱っていることへのツッコミが存在しないのだ。頼みの綱の祖父も料理をつくるばかりでのらりくらり、ここにもう一癖あれば上手くバランスが取れていたのではないかと思う。
また、風鈴の音を表す表現として「凜。」が幾度となく現れるのだが、これはポエム的で最後まで好きになれなかった。音なら平仮名か片仮名で良いだろうし、漢字として意味が持たせてある風でもない。本作品は全体的にうっすら印象派な作風であり、なおかつ説明的でもあった。
印象的であることと説明的であることは相反するように思われるが、これらは実は同じ物であろうと思う。そもそも印象を文字に起こすこと自体が説明的なのだ。スポーツの「実況」と「解説」を例にしよう。テレビの中継では当然ながら試合の様子が映像に映される。本来はそれで完結しても構わないのだ。しかしテレビを音だけで片手間に楽しむ人もいるため実況が行われる。それは映像の翻訳であり内容は映像と同じなのだ。しかし「解説」は異なる。スポーツの素人に向けて誰がどういう意図で何をして、された側はどう感じているのかを説明する。これは理解ができている人にとってはただの蛇足と言える。
小説において文章はただカメラを代理するものであれば良いと私は思っている。そして景色が見えたらその解釈は読者の方ですれば良い。普段の生活の中で目に入る物に説明など付くだろうか。人恋しいとか腹立たしいとかそんな感覚をわざわざディティールを落としてまで言葉にするだろうか。物語の本体はあくまでも読者による想像であって、文字列それらではない。書いてしまえば想像は狭められ、脳の負担は軽くなる。
この作品がそれほど酷く説明的だったわけではない。書籍化されるような作品でそれほど陳腐なこともまずないだろうと思う。ただ、この作品の読書中に考えていたことをここに書いた。
ナニカアル(桐野夏生)
頭を休めるために本を読む、そういう営みが昔の自分にあったのをこの頃思い出している。子供の頃の読書は生活の中の癒やしだった。本を読んでいればその内容以外のことは考えられなくなり悩んでもしかたないようなことを悩まなくて済む。また、読書というのは大概ぐうたらしている様であっても何とか真人間らしい体裁を私にもたらしてくれる効果もあるのだった。読むのは何でも良かった。ほとんどが実用書や雑誌の類だった。自分がその時興味を持てさえすればポケット六法であろうが取る気も無い資格の参考書でも目の前にあるものをとにかく読んでいた。
それがある頃から、勉強というものが嫌になってきたあおりを受けてか本というような立派な文章を読まなくなっていた。さらにその後は読もうと思ってもどうしても読めない期間が10年近くも続いた。読めないまま、何となく読書という文化から離れるさみしさを誤魔化そうと噂で聞いた書籍を買っては積み、積んでは忘れを繰り返していた。それが今、なぜかまた本が読めるようになっている。しかし昔と違うのはやや舌が肥えたというか、読書という体験に使える時間がどうしても貴重になって良質な体験を得たいという気持ちが強くなっていることだ。そんな時に出会ったのが桐野夏生という作家だ。わずか2作品を読んだばかりだが桐野さんの作品ならまず読んで損をしたと思いはしないだろうという信用を持っている。
そして手に取った本書、「ナニカアル」は桐野氏の作品であり、また「残虐記」と同じ新潮文庫であるという理由から頭の暇つぶしのために選んでみた。この作品については歴史物(戦争物)であり恋愛小説であるという前情報を仕入れていたのだがそれは私にとってネガティブものだった。歴史は詳しくもないし興味も無い。恋愛に至っては磁石のくっつき合うが如き異性恋愛に物語性を認めたくないとまで思っている。果たしてそんな前情報を越えて良い読書体験ができるだろうかと、これは一つのチャレンジだった。
結果的にこの読書は悪くなかった。作品への感想としては「人間って嫌だねえ」というのが一言としてのまとめだ。戦時中の物事を知ったところで面白いものじゃない、他人の恋愛模様をのぞき見たところで面白いものじゃない、そういったネガティブな想定を本作品は肯定的に受け止めてくれる懐の深さがあったと思う。
私は桐野氏の作風について、汚いものは汚く描き迂闊に美化しないところが気に入っている。人が人に恋する嫌らしさ、人を信じる嫌らしさ、人を使う嫌らしさ、人を生む嫌らしさ、人の秘密を明かす嫌らしさなどなど、本作品には様々な嫌らしさが描かれていた。
嫌らしさ、つまり罪を知るということに本来喜びはない。ただ恥が増えるだけなのだが、恥を知らない恥よりはマシだという自尊心のために罪を探す。そして人生全体を通して注意深く罪探しを実践した人だけが物語を作る中で「無自覚な美化」を避けられるのであろうと思う。
作中、桐野氏の哲学を最も感じ取ったのは松本の態度に対する「他人に自分の感情の動きを見せても平気な人は、よほど自分に自信があるのだ。」という一文だった。翻せば自分に自信がなく、自分の感情を表にできない生き方を桐野氏は知っているのだ。その注意深さは作品のあらゆる部分に警戒を張り巡らせて読者の私を安心させてくれた。
私が本作品を読みながら頭を休ませることができたのは桐野氏のこの注意深さのおかげだと感謝している。
悪文の構造(千早耿一郎)
昔に書かれた内容と知らずに買ってしまったシリーズ。ヨドバシカメラで購入したのだが、商品概要には「時代を超えて通用する文章技術書である。」というようなヒント程度の記述しかなかった。悪文でも構わないから古い内容であることを明確に書いておいて欲しかった。
さて、せっかくなので一通り読んだのだが、全般を通して感じたことは現代において悪文というものは非常に少なくなっているのだという点だった。本書では実際に出版・刊行された文章から悪文としての例を取り上げているのだが、現在の日本語話者の感覚からすると文が良い悪いにとどまらず非文と呼ばれるであろうものが多い。日本語として文の意味が一意に定まらないものをかつてこれほど許容していたのかという驚きさえあった。
情報化社会という言葉が聞かれるようになって久しいが、この言葉において「情報化」とは何が情報となったことを指すだろうか。私は人の生み出す表現が語り手・書き手ありきの物ではなく単独でブレのない意味を持つ「情報」となることを「情報化」と表したものと考える。本書が例に取り上げたように、ある文を作者も作品も媒体も不明な状態で抜き出した時に不明瞭な部分や誤解を招くようでは「情報化」のためには強度不足なのだ。そして悪文が目の前に現れたとして、「言わんとしていることは分かる」という「読み方」をすることすら現代においてはタブーに近い。
私がこうして語る現代の文章読解の感覚はTwitterでの体験が基礎にある。短い文章であり、定まった読者の想定はなく、また自分自身の立場もおよそ匿名で、そのうえ日常のつまらないことを書かねばならないのだ。ユーザーによってTwitterの使い方はそれぞれではあるが、しかし話題となる文章はそれなりに読みやすく伝わりやすく面白く書かれている。そして話題になった文章を手本に自分でも似たような文章を書いてウケを狙ってみるのだ。これは大変に良質な訓練であると思う。この無意識な訓練を繰り返した集団に浸っていると本書が悪文として示すようなものはあまりにも悪文すぎてファボどころかフォローすら外すレベルで有害に感じられた。
ここまで本書は時代遅れであるという主張を書いたつもりだが、ある意味では本書の発行以降に日本語話者たちが修正してきた悪癖をこそ取り扱っているのだ。その意味では本書は歴史の中で十分に役割を果たしてきたものと思われる。そして今後に至っても全く作文の初心者である日本語話者がいれば役立つこと間違いない内容であった。願わくは良文への方針を同じくしたまま現代の文章を例に挙げ、さらに日本語文章の品質を高める本へと生まれ変わってもらいたいところである。
OUT(桐野夏生)
桐野夏生さんの文章にはまっている。隙がなく、無駄が無く、読めば高度に圧縮された世界の広がる感覚が心地よい。つまり内容は二の次に、暇つぶしに文章を頭に流し込もうというときに最適な文章を期待して、またしても桐野夏生さんの作品を購入した。
残虐記、グロテスク、ナニカアル、と読んできて私の中では桐野さんは物語を話の展開で読ませるタイプだとは思わなかった。作品世界の中に入って、こちらが足を動かして見て回るような能動的な読み方によって物語を捉えていくような感覚がこの3作品で味わったものだった。
本作品もこれらと同じような体験をするだろうと思って購入したものだが、実際の体験は異なった。今回は物語の方からぐいぐいと展開が進められて、こちらは引っ張られてゆくがままにそのストーリーを味わい、次の展開を期待していた。
本作品の展開は強引とも言えるような唐突な部分が多くあるのだが、不思議なことに現実も確かにこんな風に唐突で奇妙で非合理的なものだったなと思わせる自然さがあり、次から次へと大胆な転がりを見せつつも不快感のない独特な軽快さがあった。
第一に弥生の夫殺しが衝撃なのだ。言ってしまえばやや退屈な流れであった弁当工場の紹介から急激に殺人事件の話へと世界が動く。動機は分からないでもないにしろ弥生に人を殺すような素振りは無かった。読みながら心の中で「やりよった!」と笑い半分興奮半分のツッコミが叫ばれたほどだ。また、殺した夫の死体処理をただの同僚であり特別な義理もない雅子に任せ、雅子もさらに同僚にその作業の手伝いを頼むのも冷静に考えると意外な展開だ。これだけでも十分意外性はあると思うのだが、この処理に邦子を巻き込ませたことが物語最大の意外性であり分岐点であった。雅子のこの小さな油断がドミノ倒しのように計画を破綻させ、一方でストーリーを展開させる。物語は登場人物それぞれの愚かさによって展開したと言っても過言ではない。
邦子の愚かさや雅子の無自覚な「抜けている」部分については読んでいて腹が立ってくるほど精密な描写が行われつつ、その行動はどこか少し冗談めいた物語の展開へ繋がり、読み進める手が止まらない気持ちよさがあった。人物像の重厚さと行動の軽快さが生み出す絶妙のバランスは最初の殺人以降物語の終わりまで切れ目無く続き、物語の終点にあっても軽やかに飛んだ飛行機が振動無く着陸するように心地よい読後感へ繋がるのだった。
この作品は想定していたよりもややコミカルであった。しかし一方で期待を裏切らない精緻な世界観をも持っていた。文庫本としては上下巻に分かれるボリュームながら暇のある限り読みふけり、上下巻合わせて4日ほどで読み終わってしまった。
一つ気になったことを挙げれば男性描写の甘さだろうか。女性の方もライトな描写であるためバランスは悪くないと思うのだがカズオはあまりにも善人すぎたし、十文字にはプライドや見栄が感じられなかった(逆に言えば暴走族にいたことが不思議だ)し、佐竹があれだけの支配欲を維持しながら出所以来勃起一つしていないというのは無理があるだろう。この作品は1997年出版であり残虐記やグロテスクよりも若い。作家の成長があったのか、作品の個性に過ぎないのか、また他の作品に触れて確かめたい。
だから荒野(桐野夏生)
飽きもせず桐野作品も5つ目となった。
はっきり言って今回の作品は個人的にハズレだった。これ以前に桐野夏生さんの作品に触れなかったとしたらあまり面白くない話を書く人という認識になっただろうと思う。
面白くないと感じた原因の第一は人物像の浅さにある。登場人物全員がありきたりな人物像であり、意外性を感じる部分が少なかった。描写としては確かにそれぞれの愚かさがよく出ていたのかもしれないが、「視点」となる主人公朋美と浩光がどちらもあまり賢くない設定であるために思考が文章化されていること自体への滑稽さがある。つまり自分の心情をそんな風に自覚できているのならもう少しマシな行動を取るだろうと思ってしまうのだ。
第二に、行き当たりばったり、終盤は打ち切りエンド感さえ感じさせるストーリーの芯のなさだ。この作品は2012年の毎日新聞朝刊へ連載されていたものらしいので連載ゆえの弱みがあったのだろうとは思う。連載では前半に出してしまったものを修正できないこと、連載をぶつ切りで読む読者を意識しなければならないこと、またある程度決められた文章量でまとめなければならないことなどの制約が考えられる。この作品について救いがあるとすれば「だから荒野」は上下巻の上巻にあたるような話に見えることだろうか。グロテスクの上巻を読み終わった時のまだ煮え切らない感覚に近いものがある。逃避行の相棒になると思われたティアナが他に何との絡みを持つわけでも無く単に廃車になったこと、説教じいさんが単なる朋美の一時の住処を提供したに過ぎない存在として終わったこと、夫浩光が明確な変化を持たないままよりを戻すことになりそうなこと、次男優太の曖昧な結末や強引とも言える旧友との再会、いずれも下巻があるのなら何か回収していくことができそうに思えてならない。
第三に、これは私が単に好まないだけの話なのだが本作品はいかにも2012年に書かれたことような描写が入ってくる。わざわざ具体的にTwitterやMinecraftを登場させるのが世界を狭めるようでつまらないのと、知ったばかりの言葉を使いたがる作者の若作りにも感じられた。ガラケーからスマホに乗り換えるのもいかにもこの時期らしい出来事なのだが、スマホに変えたことの恩恵があまり受けられていないのもその必然性を下げるようで少し気になる。
第四、作中でもやや後出しで情報が出てきたティアナという車種選定とその扱いだが、これも何か腑に落ちない。ゴルフに行くなら何も不自然なところのない車種であるし、どうしてもベンツに乗り換えたいという動機はこの車種では薄いのではないだろうか。
本作品では家族の車を持って出ていくというのは新幹線に乗って家出するのとは訳が違って自由な移動の象徴であろうし、また孤独になる朋美の相方として活躍するものと思われた。それゆえに本作品での車への愛のなさはどこか寂しいものがあった。せめて長崎まではティアナと共に旅をして欲しかったところだ。
この作品の桐野さんらしい良さの光った部分と言えばコンドーム入りのポーチが百合子のところへ送られるという毒のある展開であるが、ストーリー全体のぼやけ具合が余りにも強く唐突な感が否めない。せめて浩光がもっと性欲に盛んである描写でも入れば違ったのだろうが、大量のコンドームを持ち歩くにしてはなよなよとした設定であったのが残念だった。
小説の連載というのはどうにも難しいのかもしれない。今後読む本の選定に活かそうと思う。